yamauchinaoの日記

漫画を描いたりしています

グループレッスン:一回目

今日は初めてグループレッスンに参加した。以前参加していたところでは分からないまま進んでしまっていたところも初心者向けに噛み砕いて教えてくれる。おかげで覚束ないところもありつつも、まずまずという感じで進んでいった。

レソルシオン・バルドッサ・オーチョアデランテの三種類をやったのだが、正直いってバルドッサ(五歩歩くだけ)でも難航する始末でスマートな進行とはかけ離れていた("まずまず"はどこにいった)。だって左行って前に二歩進んで右に行く動作、日常でしなくないですか?!無茶言う~~~!と思いながらやってました。もちろん先生がサポートしてくれて、小声で教えてくれたんですけど……。無茶……。

さらに輪をかけて無茶~ってなったのがオーチョアデランテで、オーチョ(なんかフォローの人がくるくるするやつ)をするとわかっているから私のつたないリードでも伝わってるけどこれ実際のミロンガ(アルゼンチンタンゴのダンスパーティー)に出たら「ハ???」って顔されて終わるな……って思って絶望しました。いま隣にいるパートナーに「最初の記事に比べてオタク構文になっているけど大丈夫か?」と言われましたがダメです。ダメなのでオタク構文になってます。とにかくオーチョアデランテのリードが美しく分かりやすくできるようになるのが次回までの目標かな、と思いながら脳内で踊っています。

さて、ノンバイナリーである私とアルゼンチンタンゴ(またはペアダンス)の相性ですが、リードを重点的に、と言ったおかげで今のところ全くストレスなくやれています。動かされるよりも動かすほうが私にとっては快である、ということになんとなく気づいていたところを確定にされた感じ。ミロンガに出たらどうなるか分からないけれど、とりあえず大丈夫そう、大丈夫、大丈夫だよと言い聞かせながらの帰宅でした。ちなみに「尚ちゃん」と呼ばれています。まあ男性でも「ちゃん」付けすることもあるしなと思っている。わりとニュートラルな表現として受け止めた。帰りの電車でずっと指でステップを再現しながらの帰宅でした。

アルゼンチンタンゴを再開するにあたって(ノンバイナリーであることと踊り)

実は数年前、さびれたかつての繁華街のなかにぽつりと存在していた、”風俗店”と公的には処理された踊り場でアルゼンチンタンゴを習っていたことがある。そこには黒猫が一匹とマダムがひとり、のんびりと寛いでいた。グループレッスンの時間になると人がどこからともなく集まり、シューズを履いて、ある人は滑らかにそして私のような人間はぎこちなく歩き始める。音楽に合わせて円を描いて歩いていたひとりひとりはしばらくすると二人組になり、その日覚えるステップを練習することになる。それらがひと段落すると、おもむろにマダムが取り出したビールや水が配られ、それぞれのやりたいように踊る時間が始まる。私はこの空間が好きだった。

好きだったのにやめたのには大小さまざまな理由があるが、大きな理由の一つに私自身がノンバイナリーとしてその場に存在することに耐えられなかったことがあると今は思う。講師が同性愛嫌悪を丸出しにした発言をしたこと、"女性"として存在させられる違和感、いつまで経っても自分はリード(踊りを先導する人)の側に回れないであろうこと、私が私としてそこにいること。

 

そんなことがあったのに性懲りもなくまた私はアルゼンチンタンゴを再開しようとしている。今度は都内にあるグループレッスンを受けるつもりだ。数年間どこかで憧れ続けていたのがまた花開いた。それだとちょっとぬるい言い方かもしれない、滝のように流れる、踊ってみたい、という欲望に理性が負けたというのが近い。もともと身体的な言語を習得したいという欲があって、それを発散できそうなものがアルゼンチンタンゴだった。即興で踊るというところがいい。振付があるとそれに負け、喋ることを忘れてただ定型文を読み上げるだけになってしまいそうだから。

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実際に送った問い合わせメール

今度は「リードを重点的に教えてほしい」という旨の連絡を先にしておくことで、いつまでもそちら側に回れない悲劇がないように先手を打った。新しい先生からは「どちらでも好きな方を好きな時に」という返事をもらい頼もしいとも思いつつ、他のレッスン生の目がどうなるのか今から気になってしまう。私のことはどう思うのだろうか。気持ち悪いと思われるのか、理解不能だと思われるのか、それとも「ああそういうひともいるよね」と思われるのか。そんなに他人のことなんて気にしていないと思われる方もいるだろうが、気にしていない人間はたいてい私のことを初めから"女性"として扱う。それは私の欲するところではない。”女性”に見える人間を”女性”として扱わないでほしいというのは我儘だと思うだろうか?

 

しばらく前まで髪を切ってくれていた美容師の人は、私のことを一切「女の子」「女の人」とは呼ばない人だった。髪型のことを話すときも「かわいい感じになるかな」とか「こっちだとかっこいいかも」と言って、性別を髪と紐づけない、とても心地のいいコミュニケーションをしてくれた。もちろん向こうは接客業であるわけで、日常の中で他者と関わるときとは違う心遣いをしてくれたのかもしれないが、私がノンバイナリーであることを伝えなくとも一度も”女性”扱いをすることはなかった。髪を切ってもらう中でいろいろな話をしたが、その中でも一度も性別の話が出ることはなかった。人間は性別の話をせずともそれなりにやっていくことが出来るらしい、というのを教えてくれたのはこの人であった。

 

アルゼンチンタンゴの話に戻るが、私は結局マダムと黒猫がいたあのダンスフロアでほとんど何も学ぶことが出来なかった。誰のせいでもない。実家の人間はすべて運動をしていないと死んでしまうのかというくらい何かしらのスポーツで楽しみ動き回る人たちなのに、どうしてか私だけ運動神経がうまくつながっていないようなのだ。もしも私に踊りの才があったなら、こうも苦しんでいないのではないかと思う。上手に踊れる”ちょっと変わった女の子”として、リードもフォローも初めから楽しんでいただろう。その場合も自分がノンバイナリーであることにはしんどさを感じたかもしれないけれど。でもきっと、どこかのタイミングでカミングアウトをするだろう。しかしそれは踊りの魔力によって些細な事として脇にさっと寄せられたのではないか。もしも、を無限に考えてはぐったりすることを重ねていく。もしも、私に踊りのパワーで周囲を黙らせられるだけの力があれば。もしも、講師や周囲の人間が私を”女性”として扱わなければ。もしも、私が自分のことをなんの迷いもなく女性であると言えたなら。

 

私のことを”女性”と振り分けないでもらえないだろうか。その場でただそのままに存在することを、楽しく踊ることを、邪魔しないでいてはくれないか。まだおぼつかない足元を頼りなく感じながらそう思う。

 

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アルゼンチンタンゴを習うことが続くのかがまず謎ですが、これからもノンバイナリーとして踊ることについて書いていければいいなあと思っています。